今日のエッセイ的な何か 12月31日(Kin222) やっぱり本が好きだ。

・いろいろな形で文章が読める時代になったけれど、やっぱり「紙の本」の読書が好きだな、と思うのです。

・ヨシタケさんの「あるかしら書店」が売れているのは、様々なタイプの「本好き」がまだまだ生息している証拠なのではないでしょうか。

絵本とイラスト集の中間のような感じの『本』で、本にも命があって、出会いや別れがあり、誰かの心に深く残ったり、人生観を変えたりと、なんだか「人間」みたいで、さっくん(仮)(4歳7ヶ月)と一緒に本をペラペラめくったりしたクリスマスで、良き時間を過ごしてました。

・(購入してから気づきましたが、『書店限定クリスマスバージョン』がある。。。号泣。)

「あるかしら書店」クリスマスバージョン

「あるかしら書店」クリスマスバージョンで、サンタの帽子をかぶってる

「あるかしら書店」通常バージョンで、購入したバージョン

「あるかしら書店」通常バージョンで、購入したバージョン

・本のあらすじをばくっとお伝えすると、「あるかしら書店」は、ヨシタケシンスケさんの最新刊の絵本。お客さんの「あるかしら?」に「ありますよ!」と応えてくれるユニークな町はずれの本屋さんのお話なんだけど、ページをめくるたびに、本好きにはたまらない笑いのエッセンスがある。思わずニヤッと笑いながら読んでしまうし、何度も見返してしまう。楽しい時間の中で自分を肯定できる晴れやかな気分になる。子どもというよりは「本好きの大人向けの絵本」とも言える。

・ヨシタケシンスケさんの描くイラストはゆるくて味があり、見る人の想像力を掻きたてる。大人も色々と想像しながら楽しく読めて、子どもにだけには勿体無いなー。なんて。そんなことを思って、大切にしたい人たちに、この絵本をプレゼントした2017年のクリスマスでした。

・『りんごかもしれない』『ぼくのニセモノをつくるには』『このあとどうしちゃおう』とか、大人にも子供にもわかるもの、ギリギリのラインをねらいながらつくってるのが、とってもシュールでワタシの「ツボ」にはまってます。

・“なぜワタシは本を読むことが好きなのか”。そんな当たり前すぎて考えもしなかったこと、そして自分のなかにあるその答えが、この本からはやさしく感じる考えるきっかけをもらえたような気がします。

・非現実的だけど、すごく素敵な話。色んな本がある素敵な本屋さん。現実に本屋さんに行く。こんな本屋さん、本当にあったらいいなぁ。ゆっくりと笑いの癒しの時間を過ごしながら年が明けました。

・「紙の本ってやっぱりいいよねェ」byさっくん(仮)(4歳7ヶ月)+ワタシ

・やりたいことがあったら、じぶんで「めいっぱい手を上げよう」という気持ち120%で、今日も丁寧に生きていきます。そして、2018年も、どうぞ【マヤ暦神聖暦ツォルキン暦】をどうぞ、よろしくお願いしたします。

2017年12月31日(日)黒Kin Kin222(白い風 – 白い風 音1)

今日のエッセイ的な何か 10月16日(Kin146) 大人になって気づくおもしろいこと。

大人になって気づくおもしろいこと。

改めてなんだけど、
幼稚園や保育園からの「学生である間」は、同じような年齢の人たちと過ごすことがあたりまえで、小学校のときも、中学校のときも、高校のときも、大学のときも、同じような近い年齢の人たちと過ごすことが多い。

対照的に、
社会にでると「あらゆる年齢」の人たちと混ざり合いチームとなって、一緒に仕事をして過ごしていくことになる。

育ってきた環境、経験も年齢も、出身地も当たり前に違ってて、抱えている家族とかも違って、混ざり合うチームってスゴイと思うんです。大人が長くなると気づけなくなってくるんだけど、人生の残りの時間とかも違う人がいる。

なんかね。人と人は違うってことをわかりやすく体感する時期なんだと思うのです。

学生のときにはリアルではなかった同じじゃない年齢や、違う境遇の人たちと「同じ目的を持って生きていく」ことに、気づく自分がいるわけです。

年齢イロイロ×境遇イロイロ=本当にイロイロで、ものすごくイロイロ

このイロイロの多様性が、「だから素敵なことができる」と思えるコトが社会の中で働いて生きていくことに繋がっていくのではないのでしょうか。

なんかね。大人的な言葉を使うと「半期キックオフ」という公の場所で、監督がそんなことを若い人たちに言ってたのです。

うちの監督は、まだまだ若い方だとは思うけど、親父と子どもくらいの年齢で、その間にイロイロな選手や、コーチや裏方がいて、「志あふれる日本にするぞ」なんて結束する会があって、日本中から集まったチームメイトとそんな会話を繰り広げてる。

若い人たちが試行錯誤してることを、経験豊富な年上の人たちが軽々と解決してくれたりもするし、逆にあきらめかけたときに、怖いもの知らずで突破してくれる力もあったりする。

やれること、やりたいことの量と質が、増えていく。これが「働くことの面白さ」につながるんじゃないかな。なんて。

チームの形はそれぞれあれど、
チームの一部が「わたし」であり、コーチものであり、裏方のものである。携わってくれたすべての人がいて、いまのチームなんだな。

見え方もそれぞれあるかもしれないけど、チームで戦えるって強いよね。

17年度上期の「MVT」いただきました。「MVP」じゃなくて「MVT」。「T」は、teamの「T」。「most valuable player」じゃなくて、「most valuable team」とっても嬉しかった。

17年度上期MVT

半期、がんばった証。

ついでに、秋休みももらって、実家でゴロゴロさせてもらいました。

2017年10月16日(月)黒Kin Kin146(白い世界の橋渡し – 黄色の種 音3)

今日のエッセイ的な何か 07月30日(Kin68) ダーリンについて

・いろいろな夫婦にお会いして来ましたが、この7月は、結婚式ラッシュとお披露目が続いていました。

いままでも割とたくさんの結婚式に参加させてもらったけど、知り合った時から「夫婦のかたち」で知り合った人たちは、そんなに多くはないような気がしています。

・自分が年齢を重ねたからでしょうか。

「夫婦」とはなかなか面白い単位で、ふたりでセットと見ることもあるし、ひとりずつ別なこともある。と思っておつきあいしている夫婦もいる。

セットでお会いし、年をとって仲の良いご夫婦はなんか気持ちがいいのです。人間と人間というのでしょうか。「しっくりくる」というのがわかりやすいかな。そんな感じです。お互いが無理なく一緒に居る感じが伝わるのは、同じ空気感を共有しているからなのかもしれません。

・うちにもダーリンがいますが、ひと回りの時間を一緒に過ごしていてようやくダーリンのめんどくさと、面白さに気づき始められたのは、久しぶりの新しい発見で、一緒に居て12年が過ぎて、すぐれてるとか、かっこいいとか、頼り甲斐があるとか、つよいとか、やさしいとか、いろんな言葉があるけど、なんとなく一巡した感じがしている今日この頃です。

上手に言語化できてないのだけど・・・。

ダーリンとワタシ

感謝と貢献。させていただく。ありがたくいただく。行動・形に残すもの。互いの距離感。ダーリンが「休養宣言」しました。リビングのソファに陣取りました。テレビ片手に、ビールに、漫画に。そんな日もあっていいのだと思います。

2017年07月30日(日) Kin68(黄色い星 – 白い世界の橋渡し 音3)

今日のエッセイ的な何か 05月05日(Kin242) 04月01日に思ふこと

・4月1日 なんでもない1日なのですが、なんとなくいつも「4月1日」は特別な感情を抱いていました。特に今年は、感情の種類がたくさんあって、知らない自分がたくさんいることを感じたわけです。

・よくよく考えると、人事や労務採用担当以外として迎えた「4月1日」は久しぶりだったかもしれません。言語化するタイミングがなく、1ヶ月を過ごしていましたが、この感情は久しぶりなので、ちゃんと書こうとGWに思ったのでした。

・今日、5月5日で、産まれて294日目、548の言葉を発し、1,130サイズくらいです。相変わらず、Twitterは不定期更新ですが、楽しんでます。

・4月1日は次のように思っていました。

・就活時代は、漠然と自己実現のための「やりたいこと」を考えて発言をしてたし、求められていた。だから、社会に出ると、それが全面に出てしまう。でもですよ、社会の仕組みとして自身の仕事をどう捉えるべきか。それを理解することが、仕事を楽しくするための第一歩なのかもしれません。

・学生時代より社会人の方が絶対、自由は増える。学生のころと比較して、拘束時間や責任が増え「自由」が減ったと思いかもしない。でも、声を大にして言いたい。自由はたくさんある。

・例えば、社会人になったら、食べ物ひとつにしても、学生時代には考えられないようなものをいくらでも食べられる。お給料のありがたさを感じずにはいられないと思うのです。

・意外かもしれませんが、学生より社会人になった方が自由は増える。自分で何でも決めることができるし、誰とでも、どこにでも行ける。これって学生にはできないこと。自分で決済できる数が多いほど自由。社会人だからこそできることなのではないでしょうか。

・『どういう人として、生きていきたいのか?』と考えた方がいい。その方が誰でもイメージできるし、より根源的だと思うのです。俳優さんでも、先輩でも、上司でも、身近な人でもいいと思う。そのうち、『優しい大きい人になりたいんだけど……?』とか、修正したりして。どう生きたいかは、考え直したりしながらだんだんと削り出されていくものだと思うのです。そして、『自分はできてるかな?』と、いつも自問自答してみる。そうすると現在の進歩がわかるし、実力や、足らないものが見えてくると思います。

・もし、ちょっと行き詰まっているのなら、先輩は、あなたを育てることが仕事ではない。会社はなぜ成り立っているのだろう?収益を上げれているのだろうと考えば、少しは仕事に向き合えるのではないでしょうか。

・自分の仕事を理解して、まず何をすべきか考えてみるのをおすすめします。

・やっぱり、こういうことを伝え続けられる場所に、いられないことは、切なさもあるのですが、それも「味わいつくして次へ向かう」時期と思って、4月を過ごして居ました。

責任を持って生きている大人(社会人)たちは素敵だし、幸せになりやすいと思う。こどもの日ですが、やっぱり大人は面白い。

2017年05月05日(金) Kin242(白い風 – 青い鷲 音8)

今日のエッセイ的な何か 12月06日(Kin92) 40歳になってわかっ(てき)たこと。

結構真面目な話。

40歳になって思うこと。

私は十五歳のとき学問に志を立てた。
三十歳になって、その基礎ができて自立できるようになった。
四十歳になると、心に迷うことがなくなった。
五十歳になって、天が自分に与えた使命が自覚できた。
六十歳になると、人の言うことがなんでもすなおに理解できるようになった。
七十歳になると、自分のしたいと思うことをそのままやっても、
人の道を踏みはずすことがなくなった。

と孔子さんが申しておりました。

もうちょっと40歳になるまでは時間があるのだけど、19歳→20歳とか、29歳→30歳になるときとはちょっと違う感覚になっています。

40歳を迎えるときは、仕事もバリバリしてそれなりに出世して、周りの人が自分に期待して、居なくてはならない存在になっていて、事業の中心にいる感じを描いていました。でも、このままの場所に居るだけじゃ、通用しないことがうすうす感づいてくる。

別の場所での活躍を求められ、まったく違う力を発揮しないといけなくなるし、そのとき、自分が万能ではないことを突きつけられる。プレイヤーとして生きているだけなら感じにくかったことなのかもしれないなーと思うのです。

パートナーの関係や、子育て、親の介護や、自分の病気など、いろんな面で理不尽を感じはじめることが多い時期でもあるしね。つまりは、「ようやく自分のことがわかる歳」になってきたということでしょうか。

なんとなくなのですが、50歳までの10年間をどう生きていくかって割と大切なのかなーなんて。ここのところ時間が有り余っていることもあっての備忘的な「等身大の中の人」の感じです。

その1 40歳は、もっと大人だと思っていた
学生の頃描いていた40歳のイメージと実際の自分とのギャップの大きさにびっくりしてます。40歳ってこんなんでいいの?と。スーツをパリッと着て、落ち着いている感じを想像していたけど、実際のワタシはそんなんじゃない。恰好じゃないんだなー。とか思いながら、このサイトもそうだけど、いま目の前にあることを丁寧にやり続けている感じです。

その2 40歳は、どんな人であっても「上がいること、下がいること」を感じる
「その道」の一流の人と出会える機会が増える。自分が一流じゃないことに気付くときでもあります。同年代の人から「一流」と呼ばれる人が出てくる。

・山崎直子(宇宙飛行士)さんは、39歳で、スペースシャトルディスカバリーに搭乗。
・阿久悠(作詞家)さんは、40歳の年に作詞を担当した沢田研二の「勝手にしやがれ」が日本レコード大賞を受賞した。その前年は都はるみの「北の宿から」、翌年はピンク・レディーの「UFO」でも受賞している。
・井深大(元ソニー社長)さんは、映写機メーカー勤務を経て、敗戦直後だった38歳の時に盛田昭夫氏とともにソニーの前身の東京通信工業を設立。米国での小型トランジスタラジオの成功をきっかけに、町工場を世界的企業へと成長させたんだって。
・松本人志(お笑い芸人)さんは、ダウンタウンとしてすでに人気絶頂で多数のレギュラー番組を持っていた。40歳頃に「仁志松本のすべらない話」の放送が開始されたり、ソロでの活動も目立つように。
・シェリル・サンドバーグ(フェイスブックCOO)さんは、グーグルで辣腕を振るって、フェイスブック社のCOOに就任したのは43歳になる年。経営者のマーク・ザッカーバーグは、彼女に初めて会ったとき「COOにピッタリ」と思ったんだとか。
・秋元康(作詞家)さんの40歳頃は「おニャン子クラブ」と「AKB48」の中間。40歳の年に、ゲームメーカーセガの社外取締役になるなど活動の幅を広げる。AKBで再びヒットを飛ばす前の力をためた期間だったらしい。とか。

今までやってきたモノが思いっきり開花される時期なんだろうね。

その3 40歳は、何をやってきたのかだと知る。
その2と言ってることとちょっとかぶちゃう感じなんだけど、結局はさ、肩書じゃなく、どこに所属していたとかそういうことに意味はなく、「何をしてきたのか」を問われる年齢に気付く時間だってこと。ありがたいことに、割とながく「人材」の仕事をさせてもらってきてたから、そういう意味じゃ、広すぎることのない沖縄ではそれなりにやってこれたんじゃないかなー。

その4 40歳は、自分の苦手なことと、得意なことがわかってくる。
今更、不得意なことに手をだしたところでゼロにすることはできるけど、卓越できないし、不得意なことは誰かと協力し、得意なことを伸ばすことを決めたほうがいいことを知る。苦手なモノがわかるくらい自分が俯瞰できてるってことじゃないですか。時間は有限だし、やることはわんさかあるんだから、

やっぱり経験にかなうものはないじゃないですか。というところに戻って来る。1000個つくった人と10個しかつくっていない人とは、いろんなことがちがってくるんじゃないかと思います。

その5 40歳は、体力がなくなってくるけど、その分ココロに余裕ができてくる。
努力してないと、体力的にもベストコンディションが保てなくなってきました。「疲労感」がなかなか取れないのです。30代前半は、眠れば疲労感はなくなっていたのですが、最近は朝起きても、まだダルイ感じが残っているようなときがあります。

その6 40歳は、家族や友達が大切になってくる。
学生時代も、仕事をしていてもたくさんの人と出会って生きてきたけど、その中で関係性が続いている人がどのくらいいるか。と言うと残念ながらそう多くはなく、結局は、自分の人生において、調子のいい時も悪いときも、自分が弱ってるときも、嬉しいときも一緒に過ごすのは、家族であり、友人なのだと思うのです。一番近くにいる人たちを大切にして生きる。それを見て育つ子どもは、苦しいときに負けないよね。これから先が、嫌じゃないんだもん。

その7 40歳は、数字の上での成功と人生の成功とは全く別物だと知る。
「大勢でいるときって何を大切にするべきなんだろう?」というのを常に考えなきゃいけなくなるんです。で、結局、答えはふたつの言葉になっちゃう。ひとつは「信頼」なの。もうひとつは「貢献」。信頼というのは、「とにかくあいつに任せよう。あいつを呼ぼう」貢献というのは、「あいつのおかげで助かってる。稼いでくれてる」で、どっちが大事かっていうと、「信頼」のほうが大事なんだな。っておもうわけ。

その8 40歳は、面白い話ができるようになる。
苦難は経験したくないかもしれないけれど、じゃあ、まったく経験しないで50歳になったひとと、経験して50歳になったひととだったら、おもしろい話がちゃんとできるのは、やっぱり… そういうことだよね。 「知っている」ということ。苦しみとか悲しみを知っている人のほうが、豊かな気がするんです。「試練は、ごほうび。」的な。 まわりから「大変ですね」と言われる経験ほど、栄養価は高い「ごほうび。」と思いたい。「後悔しない人生」なんて口じゃよく言うケド、若いころは、ほとんど理解できなかったし、ほんとに永遠に生きている様な気がしているからね。

その9 40歳は、人生ここからが「勝負」なんだと感じる。
50代へ向かう40代からの10年間では楽をせず、もがいて、たくさんの引き出しを見つけていかなければ‥‥的な何かを思っているわけですがまだ何も考えてないのが現状だったりします。(´▽`) ‘`,、’`,、

今後もまたいくつか増えていくだろうし、まだ40歳じゃないので、オンタイムになるときにもう少し変わってくるのかもしれない。

もし、ワクワクすることが見つからない人には、「絶対にやりたくないこと」は、やらないこと。逆に言えば、「絶対」という言葉がつかない程度であれば、文句を言いながらでも逃げずにやる。そうしていくうちになんとなくかもしれないけど、ワクワクすることが見つかっていくと思うのです。

人生の計画性もなく生きていたけど、個人的な思いとしては、いまは、もっといろんなことを知りたいし、50になったときに「豊か」に生きていくためには、やっぱりいろんなことを知って、豊かになること。

会話をしていて、相手に豊かさを感じてもらえる。そういう魅力を持ちたいし、貧相ではないココロを持っていたい。

おもしろさをもっと蓄えていくために、
10年、20年と、がんばりますし楽しみます。
管理人(中の人)、いやぁ、ガツガツしているわけじゃないんだけど、
食欲旺盛だねー。

2016年12月06日(金) Kin92(黄色い人 – 黄色い人 音1)



今日のエッセイ的な何か 10月5日(Kin30)「場」と「場」のコミニケーション

またTwitterのはなしで申し訳ないのだけど、まだまだ「楽しさ」が続いています。→マヤ暦|神聖暦ツォルキン
産まれて82日目、281の言葉を発し、500サイズくらいです。

たとえるなら、「子ども」が少しずつしゃべれるようになって、ワタシの話したことに反応している感じです。

子どもがしゃべれるようになると、なんとなく忙しい感じになってきます。140文字の「栄養」を与え「いのち」を見守っている感じとよく似ている。「いのち」だから「生きてない」といけないわけで、そうなると生きていくためには、何が必要かと考えています。

ここ2週間は、ワタシの内側で大切にしている「言葉」たちを、いくつも言語化する作業をしてるのだけど、大切にしていた言葉たちがたくさんあることに倖せを感じています。ありがたい。

ほんのちょっとでもいいから、「この場所」がコミニケーションのお手伝いになれたら、みたいな感じで思っているけど、そのうちそうもいかないんだろうなーとも、ほんのちょこっとだけ覚悟をしているのであります。

子どもが他の人を傷つけることもでてくるかもしれないし、傷つけられることもあるかもしれない。仲良かった人と行き違いで疎遠になるかもしれない。もしかすると、朝、その場所に行くといきなり、やりとりをしていた人がいなくなっていることもあるかもしれない。仲良くなれない人はいてもいいけど、そういう人が攻撃してくる可能性もあるわけで、そう考えるとなんだか実社会とそう変わらない関係性が「Twitter」にもある。

やっぱり攻撃されるのは、いい気分はしないけど、仮にもし、攻撃してきた人がどんな言葉を使う人なのかがわかるソーシャルの世界は、ワタシの感情を収める追跡がしやすいものであることはいいことなのだと思いながら育てている感じです。

・「言葉」たち書く上で、「感情」とはわりと仲良しだったりすることもなんとなくわかってきたわけです。感情を言葉におこしていくと、「喜び」「悲しみ」「嫌悪」「恐怖」「怒り」の5つの基本の感情があって、この2つの感情が組み合わされると、複数の感情が生み出されることを聞いたことがあり、探してみたら、Voxがチャートにまとめていました。

例えば、
・「ヨロコビ」と「カナシミ」で「憂鬱」になる。
・「ヨロコビ」と「ビビリ」が混ざると「驚き」になる。

5つの感情が組み合わせ方で、新たに生まれる15種類の感情

5つの感情が組み合わせ方で、新たに生まれる15種類の感情


アニメ映画『インサイド・ヘッド』をみられてない方には簡単に、以下を。(ネタばれあり。)

・ヨロコビ=人をハッピーにするし、面白い遊びを思いつく
・ビビリ=人を恐怖や危険から守ってくれるが、慎重にし過ぎてしまう
・ムカムカ=嫌なものを遠ざける断る力を発揮してくれるが、怒りの導火線を引いてしまう
・イカリ=時に決断力になるが、如何せん怒りなので抑制が効かない
・カナシミ=みんなを盛り下げるし、足手まといだし、ネガティブに次ぐネガティブで救いようがない

怒ってる時も、ムカついてる時も、恐れている時も、そして悲しんでる時も、それには理由があって、頭の中では色々と葛藤が繰り広げられていると思うと、冷静になれますし、優しく接しようと思えるのです。

ちなみに映画の内容としては、反抗期を迎えた一人の少女ライリーの引越し先での葛藤のストーリーです。それだけの物語なのですが、少女ライリーが引越した学校に馴染めず、そこから感情の崩壊が起き、脳内でヨロコビとカナシミの大冒険が繰り広げられるという映画なんですが、カナシミの必要性の答えが示されており、他の人の見方が変わったり、やさしくなれるのではないでしょうか

なんか映画の感想を書いた感じになちゃいました。けど、

・話を戻すと、「言葉」と「時間」が人のうえに積もっていくのは、ほんとうに嬉しいことなんだなぁ。じぶんが書いた文章を誰かが読んでくれて反応がある、そういうことができる場所があることは倖せです。じぶんが書きたいというだけで書く文章もありますが、まぁそれはそれということで。

もう一度書くけど、誰かに「伝わる」ということは、ずいぶん嬉しいものです。

2016年10月5日(水) Kin30(白い犬 – 青い手 音4)



今日のエッセイ的な何か 09月23日(Kin18) Twitterは面白い

2ヵ月前からTwitterをはじめました。→マヤ暦|神聖暦ツォルキン

個人アカウントももちろんあるのですが、ちゃんとつぶやこう!と思って始めたことです。なんとなくの決意表明というか、まぁそんな感じでした。

今更なのだけど、Twitter面白いのです。

最初の1ヶ月目は、「今日どんな日」のアップバージョンをつぶやくだけだったのだけど、「いいね」が増えると嬉しくなる。ここ最近は、何やら独り言を呟いてみたり、1人で笑ってみたり、ほっこりしてみたりと誰かと喋っていたりとTwitterで楽しめるようになってきました。

Twitterで「なにか」書くことは、「話体」に近い。いま書いている言葉に対して、これを読む人がどう思って、なにを反応するかみたいなことが文字となっていく。ふつうの人が何を感じたとか、思ったコトが流れてくる。すっごいドラマとかじゃないふつうの日常がいいなー。って思うのです。

性格がにじみ出るような端的な文字や雰囲気は伝わりやすいし、ツイートの140文字はななめ読みできるいいボリュームメディアなんだと思うのです。

もちろんブログやサイト、facebookも、過去記事を読むことはできるのだけど、「本当に興味がなかったら」なかなか「過去記事を読む『行動』」に至らない。

新聞や報道の世界のことを悪くいうつもりはないのだけど、第三者的な視点、客観的な視点から発信することが求めらる世界で生きている人からすると、ネットメディアは理解しずらいメディアなんだということなんだろうなーとも同時に思ったのです。当事者になれないメディアから発信されることの信用性は薄くなってきている。信用できないことがあることがわかってくる。だからこそ、そこから発信される情報源をもとに、個人それぞれが思ったこと感じたこと、考えたことを発信していく「場所」があり、本当に知りたいことがわかってくる世界になってきたのはネット社会の恩恵だと思うのです。

もちろんフィルタリングも必要ですが、ネットの進化によってイロイロなものが可視化されていく。

匿名がいけないわけじゃないけど、でも名前がでないからと言って批判をすることは、いい世の中をつくっていきずらくなります。誰がどんな言葉で何を発信したか?ということがわかるようになってきたから、個人ブログの匿名の炎上なんてことに「重き」をおかなくなるし、「賛成です。」「いいですね。」って意見も簡単に表明できることはとても健全で、大きなエネルギーを生み出すよね。

アファメーションとか次の時代とか言うつもりはないけど、2008年の日本でのTwitter出現によって、ネット社会のモラルがだいぶかわってきたと思うのでした。

「独り言」のように呟いて(ツイートして)して、それを聞いた(読んだ)まわりの人が乗っかる形で「ツッコミ」を加えていくところって面白い。学生時代の休み時間の教室みたいな感じで、ワイワイできるといいな。なんて思ってTwitterやってます。

2016年9月23日(金) Kin18(白い鏡 – 白い魔法使い 音5)



今日のエッセイ的な何か 09月14日(Kin9) 「ものさし」の長さ 

思ったより復活に時間がかかってるけど、じわじわ回復してきています。

自分に元気があるかどうかなんて、わからない。

なんかおかしいなー。だるいなー。とか思って、ふと考えると、朝からいつもやってることが出来なかったりとかで、なんとなく元気がないぞ。と気づくわけです。

客観的指標は「体温計」くらいで、客観的指標がない「不調」だってある。

NTTのCMでやってるバイタルデータとICTを使用して人の「ココロの視える化(本気な度合)」なんてことが出来てるし、「スカウター -戦闘力測定 – 」なんていうアプリもある世の中だから、元気を図るスカウターみたいなのが出来てて、パシャッと取ると「今日の体調」とかわかるようになってて、「今日はむりしないでおこう。」とか「今日イケてるから、あれあれもついでにやっておこう」みたいに調整できる世の中はそう遠くはないのだと思うのです。

相性占いや、誕生日占いや生年月日占いマヤ暦にも同じような見える化、求められてるのは知ってる。

しかも万人に効く納得するレベルのものを・・・。

占いや「暦」は、答えではないのです。

最終的に受け取る側がそれをどう利用するかある程度賢くないと使いきれないデータ。結果をはずすことはとても簡単で、自分にとって良い流れをつくるいいツールだと思ってくれればいい。

「良いことを言われ何もしなかった」のであれば、「何もなかったこと自体がよいこと」になってしまう。そこは視野を広げたり、行動したら、たくさんのモノにふれる機会が増えるわけで、「良いこと」も得られるかもしれない。

ツールの使い方は人それぞれ。

聞いて打ちひしがれて生きる人もいる。
聞いて恨みながら生きる人もいる。
聞いて聞いて反応して動く人もいる。
聞いて同じところから動けない人もいる。

「ものさし」はそれぞれ違うのです。

聞いても、また悩みはでてくることもある。これもまた人生。

思いもよらないハプニングの出会いから、そういうことを考えていました。

じわじわ回復なんて言葉を使いましたが、どうやら3連休くらいのときに、台風が沖縄いらしゃるようです。低気圧が若干苦手なお年頃になってます。

2016年9月14日(水) Kin9 (赤い月 – 赤い竜 音9)



今日のエッセイ的な何か 09月09日(Kin4) 何が正解なのか。正解はないし、すべてが正解。

どうも息が切れるなぁとか、眠いなぁとか思ってたら、やっぱり風邪ひいてました。37度ちょっとで、少々頭が痛いというくらいなので、土日に静かにしていれば治ると思います。

なんとなくですが、当サイトを運営していると、切れてるようで微かにつながっている、ふわっとした「なかま」みたいな存在がいるという感覚を勝手に抱いています。

イベントでちょこっと話しただけの知り合いとか、同僚の妹さんが毎日見てくれてる。っていうのを知ったりとか、勉強会で隣に座った人がマヤ暦の本を持ってて見てあげましょうか?と言われたりとか。笑。ITというかWebというかサービス界隈の人には、トラフィックどうやってるの?とか難しいことを聞かれたりすることも増えてきました。

ここのところのワタシは、映画をみて、お菓子をつくって、サイトを修正してみたいなことをやってますが、ややこしいこともいっぱいあります。

映画やドラマでは、なんだかんだと「悪い人」と「いい人」がいて、犯人が居てわかりやすいストーリなんですが、現実問題はそうじゃない。加害者と被害者の境目はグレーで切り分けははっきりしない。

最後は、みんな大変だね。人は完ぺきじゃないね。ってところで落ち着く感じだと思うのです。

とりわけ社会人になると、「正解がない世界」で、自分の意見を持つことは大変なことなんだなぁと思うし、正解がないから意見が持てないこともあるのも事実で、ワタシ自身もそういうことはあるし、俯瞰すると痛いなー。と思うのであります。

世の中では、正解を探して、回答し続けることを求められる。

自分の意見を持っているつもりで自分なりの正解を出しているのに、やっぱり「これは正解なんだろうか」と思うのが人間。正解もひとつじゃないかもしれない。

正解はない。そしてすべては正解。

お腹の奥底から正解なんてない!と思えたら、どんな意見がでてきても、相手を尊重できるんだろうと思います。

自分なりの正解を持って、多様性を認めあう世界ってすばらしいよね。サイト運営にも正解はない。ってことでいいかな。

冒頭に戻りますが、ワタシは季節の変わり目を祝って、「風邪でもひいておくか」みたいな感じです。

2016年9月9日(木) Kin260 (黄色の種 – 赤い竜 音4)



今日のエッセイ的な何か 09月05日(Kin260) 飽きる。飽きない。

 TOP管理人のつぶやき → 2016年9月5日(Kin260)

さっくん(仮)(3歳4ヶ月)の身長は、95㎝。つまりはワタシの身長の2/3以下。

そしてそれは、おそらくワタシの見えるすべての世界が倍以上の大きさに見えている。ハズ。

そういう観点で子どもを見ていると、スゴイなと思うわけで、おもいっきりつきあってあげたい。そして公園にある滑り台は子どもの身長の3倍以上はあるわけなのですが、ワタシと一緒だからなのかもしれない壮大な安心感の元だから躊躇なく滑べっていくさっくん(仮)は好奇心の塊でしかないと思うのです。

帰ろうよ。の言葉もまったく聞かず、ワタシのやる気のダダ下がりにはまったく気にせず、自分の感情の優先順位だけを持って、またすべりに行く。

彼の脳内での生化学反応に一定の「意欲・希望・自信」の習慣付けが出来ている為と言い換える事が出来きる。とかっこよく書いてみたけど、やっぱりどうにかならないのかな。と思うのであります。

そうすると、こんな文章を見つけました。

3歳までに刻み込まれた思考パターンは、ポジティブなものであれ、ネガティブなものであれ、それを変えるには、その後10年かけても足りないと言われています。それほど、真っ白な心に刻み込まれる「思考パターン」「価値観」はとても強いのです。

ということは、どこで切り上げればいいのだろうか?さっくん(仮)(3歳4ヶ月)が「飽きる」まで待てばいいのだろうか。その「飽きる」の正体がわからないし、もしかするとずっと「飽きない」のかもしれない。さっくん(仮)(3歳4ヶ月)はかわいいし、面倒をみたくないわけでもない。つまんなくなったから・・というわけでもないのだけど、そろそろ帰りたい。というのが本音のわけです。

グルグルと何度も滑り台をすべり、炎天下の8月の沖縄の真昼間の公園で、「ママ見てー」「さっくん(仮)かっこいい?」をテープレコーダのように何回も言われると、なかなか根気のいる作業であることには間違いないのです。

受け取る側(ワタシ)と発信する側(さっくん(仮))の情報の鮮度が減ってきているからだから、こちらも「飽きてくる」。「情報の鮮度」をあげれればいいのだろうけど、どうやってあげたらいいのかがなかなかわからないダメなお母さんなのです。そんなことを考えながら、30分つきあったけど、なかなか「飽きてくれない」ので、「最後の5回、一緒にすべろう!」と言うと更にテンションが上がる!

最初から一緒にやれるほど体力はなくてきっとグズグズになちゃいますが、一緒に見ている情報を増やすことで接点が増え会話が増えるのは、子どもも大人も変わらないことを学んだのでした。

飽きずに何度も滑り台

飽きずに何度も滑り台

なんにせよ、どこで何をしていても生きぬくという体力はつけてあげたい。

2016年9月5日(月) Kin260 (黒kin) 黄色い太陽 – 黄色い星 音13